立川志らく師匠の「立川流鎖国論」から、伝統に拘りすぎる人ほどクリエイティブじゃないし全然面白くないということを考えてみる。

立川志らくさんの本読みました。

「立川流鎖国論」。

立川流とはなんぞや、ということを書いた本ではありますが、志らくさんのエッセイ色強めの本でございました。

 

東京には落語の団体が4つあり、一つは老舗で最大の「落語協会」、新作落語の老舗「落語芸術協会」、先代の三遊亭円楽師匠が作った「円楽一門会」、そして、落語協会を飛び出した立川談志が作った団体、「落語立川流」。

基本的に東京の寄席に出演できるのは、「落語協会」と「落語芸術協会」の2つのみ。

ということで、立川流は寄席に出られないのでホールなどで高座をしているのですね。

寄席というのは365日高座が開かれている場所で、入門した落語家はまずは寄席に出て修行を積む。そして5年程度で前座から二つ目に昇進し、10年程度で真打に昇進する。

ここで志らくさんが言いたいのは寄席に出られない、所謂アウトロー集団である立川流が今勢いを増してきている、と。

志の輔、談春、志らくに談笑。個性的で、魅力的な噺家が今注目を集めている。なぜか。

それは、談志という強烈なカリスマの言葉だけを信じ、談志に認められることだけを目指したから。

立川流は落協や芸協のように、年功序列のように年数を重ねれば昇進できるわけではない。

昇進基準がありそれをクリアしなければならない。

二つ目に上がる基準は「落語50席、歌舞音曲、講談の修羅場、寄席の太鼓」、真打ちの基準は「落語100席、歌舞音曲、客を呼べるメディア、談志の認める価値観」ということらしい。

 

なるほど、このあたりに僕の普段から考えていることへの疑問の答えがありそうだ。

それは、「プロの落語家のすべてが面白いわけじゃない」ということ。

確かにテレビを観てても有線で聴いてても面白くない落語が多い。

「それは生で聴いてないからだ!」という批判は受けません。

だってホントに面白い人はテレビで聴いたってラジオで聴いたって面白いはずでしょ。

よく音楽でも「ライブがホントに良いんだから!」て言うけど、いつでもライブで聴くわけじゃないし、ほとんどが何かしらの音源で聴くんだからまずは生じゃなくても良いものじゃないと僕は聴いてられません。

落語家にしてもミュージシャンにしても星の数ほどいるんだから、せめて音源だけで面白いという選別をしないと選んでられません。もちろん実際に寄席に足を運んで生で感じることも大事ですが、毎回毎回足を運んで面白い人を見つけるなんてことはなかなか出来ないわけです。

話を戻すと、なんで落協や芸協に突出した個性が少ないかということですが僕の感覚で言うとやはり長くやってれば自然と昇進するからじゃないだろうかということ。

だって面白い工夫をしなくても自然と上がれるならあまり工夫しない。

公務員が接客の向上をしないなんてのも同じ理由なんじゃないかと。とりあえず業務をこなせば給料は出るもんね。

そして寄席。定期的に出られる寄席があるから工夫しない。

普通は面白くなければ発表の場はないのでしょうけれど、定期的に出られるとなれば惰性で落語する人もいるでしょう。

そしてなんと言っても僕的には新作落語を演じる噺家じゃないとリスペクト出来ない。

立川志の輔、立川志らく、柳家花緑、春風亭昇太、柳家喬太郎などのメディアで人気の落語家は新作を演じてる。

落語は古典だ、と言う落語家は伝統を守ると言いながら新しいものを生み出せないことをすり替えているように思う。そもそも落語は大衆芸能で、本来は時代時代に合わせた噺をするもののはず。

へっついだとかいろいろ現代じゃ理解出来ない言葉が多い古典。それがわからないようじゃ落語聴いちゃダメ、みたいな風潮があるとどんどん若い人は聴かなくなっちゃう。

もちろん古典を語り継ぐことも大事。だけどそればっかりじゃなく、新作を演じながら古典を守ることだって出来るわけで、むしろ新しい客層を広げつつ伝統も守るっていうのがプロの落語家の在り方だと思うのです。

これは他でも言えることで、伝統工芸にしても伝統音楽でもそう。

残していくには昔ながらの型にこだわらなきゃいけないという人がいてそういう人は新しいことをする人を否定するけど、でも職人やアーティストってクリエイティブじゃなきゃいけないわけで、今の人に受け入れられるものを提示しながらじゃないと伝統すら守れないと僕は思うのです。

昭和の名人と言われる落語家は沢山いる。しかし今の人にはちょっとわかりにくい。

落語をとことん好きになりたい!という人ならじっくり向き合ってその味わいを理解するかもしれないけど、残念ながら娯楽が多く落語に慣れ親しんでいない現代人にはそんな時間はないわけで、ぱっと心を掴むようなものじゃないと続けて聴こうとはならないのです。

 

いやしかし、この話題は落語だけでなく他にも多くのことを含んでいるものだと書きながら思ってしまいなかなか文章がまとまらず。とりあえず今回はまとまっていない中で終わりにします。疲れちゃった。

また改めて書ききれなかったことを書きたいと思います。

ちなみに志らくさんは「落語の面白さは、わからない人にはいくら説明してもわからない閉鎖的な芸能」と書いております。

そうなのかなあ。「バールのようなもの」の面白さをわからない人っているのかなあ。

「厩火事」とか「猫の皿」とかの面白さわからないかなあ。

でもきっとわからない人もいるんでしょうね。

僕の観たけど面白くなかった、ていう人もいるでしょうけど僕はアマチュアなのでね。

とは言いながら、大橋亭トリオはアマチュアなりに皆様に落語の面白さを伝えていけるよう頑張ります。

どうぞお付き合いくださいませ。

 

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